『いきたひ』上映会 & 長谷川ひろ子監督トークイベントのご案内
「死」と「生」というテーマに向き合う、心震える映画『いきたひ』と、監督自らが語るその深遠なメッセージ。
『いきたひ』とは?
『いきたひ』というタイトルには、独特の意味が込められています。「生きる」と「死ぬ」という二つの行為が交わり合い、「生」と「死」を分けることなく、どちらも同じ一つの流れであるという考えが根底にあります。生と死は対立するものではなく、互いに補い合い、共に存在するもの。これは監督自身の体験や、人間の根源的な営みから得た哲学に基づいています。
映画のテーマ
長谷川監督は講演の中で、映画のテーマである「死」に対する理解を深めるために、自身の経験を語っています。特に、監督が亡き夫を看取った経験から、「人はどのように死を迎えるべきか」という問いを探求しています。
監督は「死」を旅に例えます。旅立つ前の「支度」――それは生きているうちに少しずつ荷物を減らし、必要なものだけを残す作業と同じだと述べています。例えば、私たちは生きるために多くの物を持ち、蓄えてきますが、死に向かうとき、もうその物は必要なくなり、最終的には呼吸さえも手放していくのです。これは、究極の「断捨離」とも言えるかもしれません。
死を受け入れるということ
講演の中で、長谷川監督は「死」をただ避けたり恐れたりするものではなく、自然なプロセスとして受け入れることが大切だと説いています。生きているうちは、私たちは命を燃やし、生命力を使い切ってからこの世を去る。それは、半端に生きて死ぬのではなく、命をすべて燃やし尽くした結果としての死だと彼女は言います。
そして、その「死」を迎える際、最も大切なのは自分の尊厳を守ること。誰かに決められた死ではなく、自分の意志で、どうやって生きてきたか、どうやって死を迎えるかを自らが決定することが重要です。これは非常に力強いメッセージであり、多くの人々にとって大きな気づきとなるでしょう。
家での看取りの重要性
また、監督は映画の中で、自身の夫を病院ではなく自宅で看取った経験を語っています。自宅での看取りは、本人や家族が最後の瞬間を自然に過ごすことができる貴重な時間だと感じたそうです。病院での死が必ずしも悪いわけではありませんが、家での看取りが持つ「温かさ」「自然さ」には、かけがえのない価値があります。
最期の瞬間に向けて
監督はさらに、「最期の瞬間に私たちは何をすべきか」という問いにも触れています。人生最後の瞬間、それは自分自身の命のバトンを次の世代に手渡す時だと述べています。私たちは一生をかけて多くの経験を積み重ね、それを次の人々に伝えていく。その最後の瞬間に、私たちが残すもの――それは銀行にある財産ではなく、目に見えない命のエネルギーです。そのエネルギーを次の世代にしっかりと手渡すために、私たちは自らの生き方を見つめ直し、最期を迎える準備をしていかなければならないのです。
『いきたひ』のメッセージ
映画『いきたひ』は、生と死の境界を見つめ直し、どのように生き、どのように死に向き合うかを深く考える作品です。監督の語るメッセージは、現代社会において重要な問いを投げかけます。それは、ただ「生きる」ことだけに価値を置くのではなく、「どのように生きたいのか」「どのように死を迎えたいのか」という、本質的な問いです。
この映画と講演を通じて、皆さんもぜひ、人生や死に向き合うための時間を過ごしてみてください。監督自身の体験と深い洞察に触れ、日常とは違った視点から、自分の生き方や死に向けた準備について考えるきっかけとなることでしょう。
監督の思い
「どう死なせないか」ではなく「どう生ききるか」
後期高齢化で多死社会を迎えたこの時代に、計らずも看取りをテーマにしたドキュメンタリー映画を世に送り出すこととなった。
余命半年の宣告を受けた主人にカメラを向けたのは、主人が薬学博士として末期癌の方々を生還させて来た実績を傍らで見て来たからであった。自らが生還する過程を示してくれるものと信じて、主人の闘病生活を記録映像として残した。結局余命宣告から3ヶ月でこの世を去ったが、その映像は実に多くの教訓を残してくれた。先ず抗癌剤を断り自宅で終えられた幸い。映画の後半、主人の遺体を囲んで眠る4人の子供達の寝顔のシーンがある。畳の上で「生と死」が並んでいる場面を映し出すことで、日常の中にある「命の終わり」を観て欲しかった。
人生が刻まれた家で最後まで家族と一緒にいられたのは、遺された者にとっても救いとなった。病院だと死ぬ直前まで医療行為を受けることになり「どう死なせないか」にフォーカスされてしまうが、自宅では「どう生ききるか」を貫くことが出来た。家では家の主でいられるが、救急車に乗った途端に患者となる。生きるとは「暮らす」ということ。病院は暮らす所ではない。人生の最後が暮らしの中から切り取られてしまっているこの時代だからこそ、何処で誰と終えるかを見つめ直して欲しいと思う。亡くなってからの49日があるように亡くなる前の49日は人生の最終章。この最終章をどう書き上げるか、逝く人、遺される人との出会い直しや紡ぎ直しの期間。「終わり良ければ全て良し」命をかけたその瞬間を豊かなものに出来たら、それがこの国の成熟度に反映されると思う。
天地合同制作映画
この映画は主人が亡くならなかったら存在しない。主人の「死」を私が映画として生かし、私の「生」を主人の「死」が活かしてくれて「今」がある。
映画のタイトル文字は生と死の合体文字であり、主人と私の関係性を象徴した造語でもある。あの世とこの世、生と死、その境は幻のようなものであり、我々は肉体の有無を超えて死者と共に生きているのだと思わざるを得ない。
映画を観た方々が今は亡き大切な人との糸を紡ぎ直し、その死を肯定し、看取り直しをすることで自分を立て直していかれる。後悔が感謝へと昇華して行く様を目撃する度に、この映画は「天地合同制作映画」だと思う。